演奏中込み上げてくる物があり、涙が止まりませんでした。
 
 埼玉在住45年、岩手県釜石出身です。この震災で兄、親戚、同級生が犠牲になりました。演奏中込み上げてくる物があり涙が止まりませんでした。曲が終わり、気持ちを落ち着かせすぎて次曲の譜面の用意が遅れてしまい結果、演奏中譜面を探しまくってしまいました。
 
 800名強の演奏者の中で果たして私だけだったでしょうか・・・
 
 思い起こせば「阪神淡路大震災」、神戸での第一回コンサートで私の隣の方がそうでした。もらい泣きしたのを鮮明に覚えています。スタッフの皆々様、演奏者の皆々様「感動の涙」ありがとうございました。そしてご苦労さまでした。

 
埼玉 11パート 猪又敏夫

また次があれば集って演奏したい気持ちです。
 
 1000チェロお疲れ様でした。私は福岡から参加させていただきました。1000チェロは広島に続き2回目で、9パートの参加です。
 
 私は40歳を過ぎてからチェロを始めたのですが、この楽器で小さな曲を奏でることができたら素敵だろうな、と思ったのがきっかけです。チェロの低音の美しい音色、”はじめたい”という気持ちも、チェロならその懐の広さで受け入れてもらえそう! と勝手に思ってしまったのです。もちろんそう簡単ではなかったですが、今でも楽しく続けられているのは、やはりチェロの魅力に捕らわれてしまったのだと思います。
 
 そしてこの大きな楽器を抱えて、仙台の地でコンサートに臨みました。震災復興のためのコンサートの片隅に参加できたことを感謝しています。高校生の澄んだ歌声に感動しながら精一杯演奏させていただきました。一流の演奏家の方々の息吹にも触れ、清冽な空気にも包まれました。本当に貴重な体験でした。
 
 最後の懇親会の時に、ボランティアの方々のいろいろなご苦労を知りました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。また次があれば集って演奏したい気持ちです。          

福岡 9パート 小林享子

会場に舞う 「天女」 と再会
 
 ゼビオアリーナ仙台の客席は満席。震災巨大画3部作も1000人のチェリストを眺めていました。演奏が始まり、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 の曲を演奏しているとき、巨大画 「三陸の黄金」 の陰から 、美しい天女が黄色い布をひらめかせて舞いおり、私たちの頭上で舞を舞っているような想いになったのです。
 
 実は私が第1回目の東北キャラバン二日目(2011.11.28)に訪れた陸前高田の奇跡の一本松近くの枯れ木の枝に、黄色の布切れが引っ掛かっていたのを見て、大津波で流された天女が残した 「天女の羽衣」 の一片に違いないと思い、鎮魂の思いをいだいてスケッチブックに描き残しました。(会報誌Cellissimo17号7ページに掲載)
 
 「そうだ。波間に消えて逝ってしまったと思っていた、あの天女が、千の風になって、あの大きな空を吹き渡り、会場にやってきたのに違いない」と私は思いました。
 
 名曲に舞う天女たち、「讃歌」「パッサカリア」「セレナーデ」 など曲に相応しい舞、豊かなチェロの響きに乗せた舞、仲間の天女たちも加わってゼビオアリーナ仙台は大きな感動と余韻に胸温まる忘れられないコンサートになりました。
 
 本当にありがとう皆さん。第5回1000人のチェロコンサート。
 
 私も、「 あすと いう日が あるかぎり しあわせを信じて 自分信じて生きていこう 」 東日本大震災・鎮魂と復興支援の1000人のチェロ・コンサート2015年5月24日は、天女にも逢えた傘寿記念の素晴らしい日になりました。
 

大阪 11パート 鈴木孝道

何のためにチェロを弾くのか。思い出すことができました。
 
 誰かのことを思いながら、誰かに見守られながら、誰かのために、心を込めて、誰かと一緒に、ひとつの音楽を作り上げていく。
幾度となく、涙で楽譜がみえなくなりました。
 
 2ヵ月前、突然の病で家内が倒れた時。音楽なんて、チェロなんて何の役にも立たないと思い、仙台行きはやめるつもりでした。
『チェロを弾くあなたを見られなくなるのは寂しい。演奏の後の嬉しそうな話を聞いていると、楽器のできない自分まで演奏者の気分になれて嬉しかったよ。音楽をやめるのは仙台の後でも遅くないよ』いつ病が再発するかもしれない不安の中、仙台に向かうことにしました。
 
 何のためにチェロを弾くのか。思い出すことができました。素晴らしい時間でした。心から、ありがとうございます。
 

東京都 2パート 松尾達也

ありがとう!仙台!
 
 初めての参加でした。
 好きでチェロを弾いています。私の好きでしていることで何か伝えることができるなら、こんなに嬉しいことはありません。
 
 仙台は明るく緑豊かで、杜の都の名にふさわしい街でした。でも、新幹線で「さあ、いよいよ仙台」とのぞいた窓から目に入ってきたのは、多くの墓石の並ぶお寺でした。チェロ仲間と立ち寄った石巻では日和山から眺めた景色に絶句しました。
 
 高校生の歌声に涙したのは私だけではなかったと思います。
「何かを伝えようと思って弾いてください。そうすればきっと伝わります」昨年指導をいただいた先生の言葉を頼りに、私なりの東北への応援ができたと思います。行けて良かった。ありがとう!仙台!
 

京都府 8パート 小林奈緒子

この感動のお返しをしたい。
 
 第5回1000人のチェロ・コンサートに初めて参加させていただきまして、田原事務局長をはじめ多くの方々に大変お世話になりました。貴重な体験をし楽しく帰宅できたのも皆様のおかげです。御礼申し上げます。
 
 このコンサートを応援してくださった楽器店をご報告させていただきます。文京楽器さんはチラシを店内に置いてくださり、ホームページの5月の演奏会情報にリンクを貼って丁寧に載せてくださいました。きっかけは4月25日の東京公式練習のあと、文京楽器さんで弓の毛替えをお願いした時にチラシを1枚渡したら「お店に置けますよ」と言われ、持っていたチラシ数枚を渡したことがきっかけでした。
 
 今後チェロを弾いていく人生で、1000人のチェロ・コンサートの感動を胸に、何かの折に、何かの形で、どこかで、この感動のお返しができることを願っております。皆様に感謝申し上げます。
 

 
東京都 8パート 斉藤恵留子

大きなものを私に残してくれました。
 
 2015年5月24日、ゼビオアリーナ仙台という場所でチェロを弾けたことは、私にとって大事な大事な宝物になりました。2009年にチェロを始めたばかりの私にとって、前回広島での1000チェロは自分からは遠くかけ離れた遠い存在でしたが、次回開催の時には参加したいな~と漠然と思っていました。いよいよ仙台で!となり、仲間4人で申込み、暑い日も寒い日も練習会に参加。当日ひとりも欠けることなく参加でき、皆感動で胸いっぱいです。
 
 10日が経った今、当日のことはどこか夢の中の出来事のように感じられます。チェロが幾重にも重なった優しく豊かな音色。高校生の澄みきった歌声。それらを大きな大きな翼で抱え込まれたような安堵感。すべてがまだ頭の中で、心の中で鳴り続けています。すばらしい時間を本当にありがとうございました。1000チェロは想像していたよりうんと大きなものを私に残してくれました。
 
 ゼロから仙台1000チェロを創ってくれた皆様、聴きに来てくださった皆様、一緒に練習してくれた仲間、そして笑顔で送り出してくれた家族に心から感謝します。
 

東京都 9パート 兒玉陽子

もろもろまとめてありがとうございました
 
 私なりの総括をご紹介いたします。2011年8月からのことですから大変長くなります。しかし、1000チェロそのものは1998年11月からです。まぁ1000年に一度の大震災から考えれば大した時間ではない。人間の無力さ、おごり、などを考えさせられた4年弱の時間、大きな夢を見、今まで経験したことのない、様々な貴重な経験をさせていただきました。
 
 以下、5回にわたり、フェイスブックで書かせていただいたことをここにまとめさせていただき、私からの挨拶にかえさせていただきます。人生何がおこるかわかりませんが、とにかく仙台で1000チェロができた「奇跡」に感謝いたします。本当にありがとうございました。
 
仙台1000チェロと1000チェロの今後 その1
 
 長くなります。最初からおつきあいいただくか、無視するか決めてから読んでいただければ幸いです。そろそろ書いて良い時期だと思うので、書いてみます。1000チェロは私が思っていた以上に素晴らしいイベントでした。それはもちろんそうです。だから私はやみつきになったのですし、震災の4年後の総決算を仙台でできたことにこの上もない歓びを感じています。本当にこの「無謀な」取り組みに賛同いただいてありがとうございました。被災地の理事として、この4年と2ヵ月の体験を記しておきたいと思います。
 ものごとにはすべてポジティブな側面とネガティブな側面があります。ポジティブな側面はこの一週間で皆さんが心から感動し、心から自発的に書いてきた珠玉の言葉達が十分に語っていると思います。もう、十分です。ネガティブな側面については、語りたくない、聞きたくない、という向きも多数おられると思います。しかし、私は1000人のチェロ・コンサートというものが、(仙台の高坂知節運営委員長の言葉によれば、日本が誇る「世界の」財産、ならば尚更、)、この世界に必要なものなのかどうか、から問い直して見ることが必要だと考えます。
 
 私は「必要だ}という立場です。私の妻は疑問を持っています。沢山の「無理を」重ねて、仙台の第5回1000チェロもおこなわれました。そもそもその無理は、無理する価値のある無理なのでしょうか?
 今一度、仙台の興奮が冷めないうちに冷静に検証していきたいと思います。
 
仙台1000チェロと1000チェロの今後 その2
 
 私の妻の意見を書いたので、議論がそれたようです。その1で確かめたかったことは、1000チェロはなぜ必要か?その存在理由は何か?ということ。仙台1000チェロの後で気分が高揚しているのを差し引いても圧倒的な賛意が得られると思ったのですが、まずそこから再確認する必要がありそうです。
 
 阪神淡路大震災を受けて、神戸ではじまった。東日本大震災を受けて、仙台では、高揚した。ということから、大きな自然災害に気持ちを寄せて、演奏参加者の心が一つになって感動を生み出した、という点には異論はありませんね?
では、自然災害や戦争など人的災害がなかったら、1000チェロは不要でしょうか?とりあえず、今の世の中では、そのような事態はあり得ない、不幸で不本意なことだけれど、という答えは、一度取り除いてください。
 
 その上で、1000チェロは存続する意義と価値がありますか?難しい質問でしょうか?たくさんの困難、苦難を乗り越えて、仙台1000チェロは、無事目的を達しましたが、演奏参加者のあなたを仙台に向かわせたものは何でしたか?
 
仙台1000チェロと1000チェロの今後 その3
 
 とりあえず、大方の意見は特に、1000チェロ開催直後ということもあり、仮に「1000チェロは存続する意義と価値がある」ということが共通認識となったと仮定して話を進めさせて下さい。
 
 畑井統括のプログラム、プロダクションノートから引用。(とても大変なタスクを数人の理事とスタッフでこなさなければならない)「1000チェロはたしかに過去4回行われ、様々な知見もたまっているし、もっとスマートにできそうなものですが、そうは問屋が卸してはくれない。」(過去のイベントは被災地発信で被災地に届ける、広島は直近に被災したわけでない)「今回は東京を本部にして被災地仙台に届ける、という構造」で「事業のスキームがこれまでと根本的に違いました。」
 
 第1回から第4回までの過去の1000チェロと、今回の仙台では、大きな違いがあったということです。そのために準備、実行、組織、あらゆる面で新しいチャレンジがありました。ふたたび畑井統括の引用。「事務局長と私とで交互に仙台に通うのですが、意思の疎通が図れてきたと感じたのは、ようやくこの4月に入ってからのことでした。」、仙台担当の理事として、私にさえ、このスキームの違いがどのくらいのチャレンジなのか、気づくまでに大部時間がかかったのです。そのためにまた大きな無理が様々なところ、試み、構造、人にかかる結果となりました。どう考えても無理と思うことを、自明の理として進めなければならない局面も多く、今は許して、と思いながら、「無茶ぶり」だらけで前に進まねばならないことも多かったのです。この場を借りて、そのような場面に遭遇したことがなかったにも関わらす、よりによってこのプロジェクトでそのような場面に遭遇された方々に深くお詫び申し上げます。
 
 つまり、これまでも大変だったプロジェクトがただでさえ、もっと大変なプロジェクトになったということです。次に仙台で無理した理由と実態について更に突っ込んで検討したいと思います。
 
仙台1000チェロと1000チェロの今後 その4
 
 ここまで書いてきたので、あとは結論を申し述べてもよろしいのですが、折角順番に整理してきたので、もう少し書かせてください。
 
 理事会では喧々諤々の議論になり、やめるやめないが茶飯事だったと畑井さんの例の文書に書いてあります。その通りでした。そのキッカケは様々ですが、一番大きな原因は、事業の規模に比べて、実務を担当するマンパワーが圧倒的に不足していることにありました。皆さんは、会報誌の作成、名簿の整理、参加者募集以後の事務処理、そして実際の1000チェロを本番までの事務作業はどこで誰がやったとお思いですか?固定した事務所を持たない、田原さんが藤代さんとほぼ二人で、やったというのが嘘偽りのないところです。(語弊がありますので、追加書き込みします。ほぼ二人でというのは言い過ぎでした。HPに記載されている制作スタッフの方々はじめ多くのボランティアの献身によってなりたったのです。この文脈で言いたかったことは二人がやったという面ではなく、ごくごく少人数で担ったという側面です。誤解を招いたとしたら、言葉足らずの私の責任です。ご容赦下さい。15/6/3追記)。私は理事になってから、どこかにもっと大きな組織があり、そこが本番を動かすのだと長らく、信じていました。しかし、そんなものはどこにもなかったのです。
 
 仙台で、実務を担当する部隊がどうしても必要となった時に、見切り発車で事務所を確保しました。それに対する、田原さんの反発は猛烈なものでした。あとになってからわかったことですが、その猛烈な反発のもとは、ご自分の年余に渡る不十分極まりない環境での、絶大な事務処理量だったのです。これがわかった時の衝撃は凄く大きく深いものでした。
 
 さらに、詳細はここでは書けませんが、1000チェロ本体の実行委員会と、運営スタッフ、そしてNPOとの関係。これは今も実は私は完全に把握できていないのです。この複雑な関係は、結局私の考えでは、一つの原因からきているということも明らかだと思います。しかし、第5回1000人のチェロ・コンサートは、この形以外ではこの世に生まれ出ることができなかったのです。
 
 次にそのあたりの状況を今、ご説明できる範囲で書きたいと思います。
 
仙台1000チェロと1000チェロの今後 その5
 
 大体言いたいことはわかっていただけたと思うのですが。とりあえず、今言いたいことを書いてみます。簡単にいうと、「1000チェロは素晴らしい。これは是非続ける必要がある、日本が世界に誇る宝である」「しかし、その実行組織は、NPO国際チェロアンサンブル協会も今回採用した、運営スタッフ方式も含めて、やろうとしている事業の規模と広がりに比して、圧倒的に力量不足である」。そのための無理、歪みがいたるところで噴出していて、「このままでは」続行は難しいのではないか?
 
 以後、私見です。NPOが1000チェロとどういう関係になるのか、技術的にはいろいろなご意見があると思いますが、成立の経緯からして、1000チェロと無関係ではあり得ない。国際チェロアンサンブル協会の位置づけが曖昧だったのが問題の大きな根源だったのではないだろうか?今までの堂々めぐりを誤解を恐れずに直截にまとめてみると、NPOの日常活動はあるようでなかったということになると思います。1000チェロを開催する度に盛り上がった、アンサンブルへの熱意とか、ボランティアを継続してやりたいとかのポジティブな意慾は、ローカルのチェロアンサンブルをやることで、何となく満たされてしまって、全国や世界を見渡す活動に発展してこなかったのではないか?あ、やはり誤解を招きそうです。そのような側面があったのではないか?ということです。
 
 本当にこの世の中が1000チェロを必要としているなら、何とか存続して、継続して、1000チェロをできるような仕組みを作ることが一番大切ではないでしょうか?そのヒントは東北キャラバンにあったのではないかと思うのです。キャラバンはいろいろな思惑からはじまりましたが、とにかく被災地に寄り添い、自発的な意志で、基本的には手弁当(第7回だけが例外になりましたが。)でやってきました。これが正しい方向性ならば、ただチェロアンサンブルをするのでは「なく」、東北キャラバンをあらゆる場所でやれば良いのではないでしょうか?もし賛同がえられるならば、広島の水害、御岳山の噴火、口之永良部島の噴火、などに対して今すぐにでもキャラバンをやりたいです。たぶんできると思います。そのような活動は実は、これまで見てきたように何も災害がなければできないということもないのではないでしょうか?
 
 そこのところを少しだけ考えていただけませんでしょうか?
 
 

理事 高橋 明

1000チェロを終えて。
 
 ものごと、準備してしすぎることはない。だけど、しきれるものでもない。これが1000チェロであり、そのむずかしさ、作りあげる醍醐味もここにある。
 
 前々日からずっとライブしているような感覚。あれだけの準備をしたのにぶっつけ本番をやっているような感触。設営も練習も撮影収録も、もちろん本番もみなライブ。
 
 精密なシミュレーションを繰り返して準備万端整えることも大事だけど、それ以外のことは起こらないのだと仮定するなら、それのほうがよほど危険なのだ。
 
 当日まわりではいろんなことが起こるから、起こったらすぐに判断できるようにしておく。そして、出演者が1000人もいるのだから、混乱するしパニックにもなるのだという構え。いや実は、そう見えるだけで、ちょっと時間がかかっているだけと転換する気丈さ。えてしてパニックになるのは、パニックの現場を見て監督官が「なんだ!パニックじゃないか!」と詰ることによってだ。
完璧な準備、完璧なオペレーションプランよりも、よほどこの感覚や認識、啓蒙のほうが大事。イレギュラーも失敗も起こる。至らないこともどうしても出てきてしまう。その時その場合に対する心構え。ほとんどこれがすべてと言っていい。
スタッフが駆けずり回っているのを見れば、聞こうとおもっていたけど自分で解決しようと思うだろう。スタッフの仕事量がずっとコップからあふれている状態、それによってみんなの自主性、自律性が高まる。その力を借りて回さないと回らないのだ、正直なところ。
 
 1000人で演奏するだけでもたいへんなのに、今回は震災巨大画を吊るしたり、足をこちらで用意して沿岸部から被災者を招待したり、合唱曲には写真スライド、レクイエムにはドキュメンタリー映像を流すなど、ずいぶんと新しいことをやった。いや、欲張った。どうしてこんなに欲張るのか、どうしてこんなにつらいことをやるのか。その答えはプログラムのプロダクションノートに書いたとおりなのだが、その答えこそがこの1000チェロを成功に導いてくれたのだと私は思った。
 
 もし、このコンサートイベントが感動を呼んで成功だったとするなら、それは被災地の悲しみの深さが転生したものだ。我々も力の限りがんばった。それは誇りうるものだと思う。でも、それを導いたのは東北に暮らす人々の悲しみなのだ。私たちはここまでがんばってやっと、その悲しみにほんの少し寄り添えたにちがいない、そういう確信を許されるのだろう。
 
 プロの方々、海外から馳せ参じてくれたチェリスト、日本の演奏者のみなさん、裏方のみんな、外から支援してくれた友だち、そして見に来てくれた方々、心からの感謝を送ります。ありがとうございました。
 

第5回1000人のチェロ・コンサート 製作統括 畑井貴晶